タカノフーズのあゆみ

1957 1965 個人商店から法人化へ

戦後復興を果たした日本経済は、昭和30年代に入ると高度成長への助走期を迎えることになります。〝もはや「戦後」ではない〟と謳ったのは、昭和31(1956)年度版『経済白書』でした。

このころになると、配達にはバイクが使われるようになり、納豆を積んだリヤカーを引いて得意先を回りました。家族的雰囲気は昔のままで、高野商店には常時2人ほどの従業員兼お手伝いさんが住み込んでおり、彼女たちは徳三を「旦那さん」、なをを「女将さん」と呼んで親のように慕い、徳三たちも正月には桐の柾目の下駄などを贈ってかわいがっていました。当時、納豆作りの主役は女性たちで、女将さんは和服にたすき掛けのいで立ちで陣頭指揮をとっていました。

しかし、近代的精神の持ち主、髙野徳三はこうした家内工業的業態にいつまでも安住してはいませんでした。将来の成長を図るべく、昭和32年12月、高野商店を「有限会社おかめ納豆本舗」に改組。昭和37年には、量産化と合理化を目指して玉里工場(後の霞ケ浦工場)を建設し、製造工程にコンベアを採用した結果、流れ作業によって生産量は大きく伸びました。

  • 開発前の鹿島工業地帯(1960年)
    (時事通信社提供)
  • 稲を小舟で運搬する水郷地帯の稲刈り(1958年)
    (毎日新聞社提供)
  • 玉里工場(後の霞ケ浦工場)

このころ、納豆の容器は「藁つと」から、藁を針金ですだれ状に編んだ「すだれ」へと移行していました。はじめは手編みのすだれを使っていましたが、すだれを編む機械が登場すると、ただちに採用。茨城県では導入第1号となりました。髙野徳三は米の特産地であった佐原市三島近隣の農家に出向いて編み機を据え付けてもらい、容器作りを依頼し、契約して買い上げることで容器の確保を図りました。この外注システムにより、最も手間のかかっていた工程の省力化が実現しました。

量産体制が整うとともに、販路も茨城県南部から納豆の本場・水戸をはじめ県下全域にわたり、昭和30年代後半には東京の青果市場へと拡大しました。

髙野徳三が東京進出の手始めとして選んだ売り込み先は三越でした。何の実績もない、地方の小さな会社の社長が、いきなり三越に出向いても相手にしてもらえるわけはなく、成果はあがりませんでしたが、当時日本最大の百貨店に売り込みをかけるという心意気、それは優れたマーケティング感覚を示すエピソードです。

昭和40年、東京営業所を開設し、青楓チェーン青戸店を皮切りに大手スーパーとの取引を開始することとなりますが、髙野徳三のこの心意気は「地域で一番大きなところを攻略する」というタカノフーズのチャレンジ精神となって、現在も脈々と受け継がれています。

  • すだれ納豆(左)とロケット納豆と呼ばれたわら納豆(右)
  • すだれ製造風景
  • スーパーとの取引第1号となった青楓チェーン青戸店