タカノフーズのあゆみ
1932〜 1956年 創業時代~戦中~戦後復興期
タカノフーズの創業者・髙野徳三が納豆作りを始めるきっかけとなったのは、味噌と麹を製造販売していた髙野家の番頭が千葉・佐原の「おかめ納豆」で修業を終え、のれんを分けてもらい帰ってきたことでした。兄の経営する店を手伝うことに飽きたらず、かねてから自分でも何か事業を起こしたいと考えていた徳三はこれを機に、昭和7(1932)年、納豆の製造販売を目的とする「高野商店」を創業しました。
昭和12年、髙野徳三はなをと結婚。以後、二人三脚による納豆作りが始まりました。すべて手作業の時代であった。昼間の仕事を終えた後、温度管理のための夜のムロ回りは、2人が交代で行い、翌朝、できた納豆を徳三が自転車に積んで、8キロ離れた石岡の市場まで配達するという毎日でした。
昭和17年ごろには販売店の1個当たりの利幅が同業者を上回る2銭まで伸びたので、おかめ納豆を売れば儲かると言われました。住み込みの若い衆や手伝いの女性が来るようになり、生産量もかなり増えました。
しかし、時代は破滅的な戦争に向かって一歩一歩進んでおり、昭和6年9月、関東軍による満州事変が勃発。翌年5月には「五・一五事件」で犬養毅首相が射殺され、政党内閣が終焉を迎え、11年2月の「二・二六事件」、12年7月の廬溝橋事件に端を発する日中戦争開始と続き、ついに昭和16年12月8日、日本は米英両国に宣戦を布告して太平洋戦争に突入していきます。
昭和18年には戦時経済統制が頂点に達し、戦時国家独占資本主義体制が確立。大豆も統制の対象となったため原料の確保には苦労しなければなりませんでした。方々のつてを頼って大豆を取り寄せ、鹿島参宮鉄道の小川の駅までリヤカーで引き取りに行くこともあれば、東京からやって来る問屋から物々交換で入手することもありました。時には知り合いに配給大豆を分けてもらって納豆の製造を続け、百里基地へ納めたりもしていました。
燃料も不足して、練炭やタドンを手作りすることが何年か続きました。練炭の材料となる石炭の粉は、鹿島参宮鉄道からの貰いものでした。