タカノフーズのあゆみ
1966〜 1978年 東京進出と日本の消費形態変化への対応
昭和40年代、日本経済は本格的な高度成長期に突入しました。この時期、大量生産と大量消費を結ぶチェーンストアが誕生し、流通革命の旗手として消費者の幅広い支持を受けることとなります。
「おかめ納豆」というブランドは、昭和39(1964)年以前には全国に15〜20種類もあったといわれています。髙野英一は早稲田大学の広告研究会に所属していたころ、「おかめ納豆」のブランドマークの商標登録を考えついており、昭和39年7月30日、出願に踏み切りました。昭和42年11月、登録が認められ、以後、おかめ印がシンボルマークとなります。
昭和40年、おかめ納豆本舗は流通新時代をにらんだ市場開拓を図り、東京営業所を墨田区に新設しました。所員は2人だけで、営業所といっても町井(元監査役)の実家の駐車場に一坪ほどの冷蔵庫とダットサンが1台という状況でした。
髙野英一は学生時代、高田馬場にオープンして間もないスーパー西友を見て、将来はこうした形態の店舗が日本中に普及すると直感しました。2人はチェーンストアとの取引に全情熱を傾注。東京営業所開設から数カ月後、念願のスーパー進出が実現しました。当時、青戸にあった青楓チェーンです。
以後、昭和42年にイトーヨーカ堂、45年にダイエーとの取引に成功。チェーンストアが出店競争を繰り広げていた時代で、出店が増えれば増えるほど、おかめ納豆の売り上げは伸びて、現在の基礎を築いていきました。
第一次オイルショック以後の狂乱物価の時代には大豆価格も暴騰し、中国から、さらにはアメリカからも緊急輸入されました。しかし当時、納豆メーカーが苦慮していたのは、需要に供給が追いつかないという生産能力の問題でした。厳しい経済環境の中、チェーンストアの全国展開の追い風を受け業績を大きく伸ばしていたおかめ納豆本舗は、充分な供給力を備えた数少ないメーカーの一つでした。
とはいっても限界は目に見えていました。昭和47年3月、玉里工場の増設に踏み切り、日産10万食(1食当たり100グラム)体制を整えました。これで当分は需給のバランスがとれると思われましたが、わずか2年後、再び増設の必要に迫られることとなりました。
スーパーの展開とそれに伴う納豆の需要は予測を大きく超えていたのです。
昭和50年に完成した増設工事によって、玉里工場は全自動納豆製造ライン、大型冷蔵庫、排水処理設備などを備え、日産25万食の生産が可能となりました。
この2度にわたる増設の結果、玉里工場は業界初の近代的な工場として生まれ変わりました。平屋であった工場を三階建てにすることで、土地の有効利用はもちろん、製造ラインが上から下へ流れる立体工場となり、省力化をも実現しました。
これは、髙野英一が納豆先進地といわれる東北、北海道にまで足を運んで設計プランを練りに練った成果でしたが、当時、髙野英一が理想としていた工場のモデルはどこにも存在せず、試行錯誤の連続となりました。また、機械化をいかに進めるかという大きな課題についても、手本となる機械は見当たらず、機械メーカーと苦心惨憺の末の労作でした。