タカノフーズのあゆみ
1995〜 1998年 タカノフーズネットワークの確立と豆腐事業の本格化
平成7(1995)年は1月の阪神・淡路大震災、3月のオウム真理教による地下鉄サリン事件と暗いニュースが続き、翌8年も、住専の不良債権処理問題、薬害エイズ問題などが日本を揺るがしました。バブル崩壊後の日本経済は、大型倒産、企業リストラ、失業者の急増、金融危機に見舞われ、デフレが懸念されるような不況に陥ることとなりました。
当社は、こうした状況下、平成7年から9年にかけて、町田営業所(横浜営業所と多摩営業所を統合)、盛岡営業所、京都営業所を開設し、また、関連会社として、㈱高野屋(三重県)、常陸屋食品㈱(現タカノフーズ茨城㈱)、タカノフーズ九州㈱(佐賀県)を設立し、ネットワークの確立を図りました。
従来、西日本の納豆消費量は関東の半分程度で、「納豆はおいしいからではなく、体に良いから食べる」という人が多かったです。しかし、食べ慣れるに従って、納豆のおいしさが徐々に浸透し、消費量は増加傾向を見せ始めました。平成8年11月に九州工場(佐賀県神埼市)が完成していますが、ある程度の売り上げが見込めるようになったため、計画より早い工場進出となりました。
平成9年2月、筑波工場(茨城県小美玉市)が完成。これは豆腐専用の工場で、納豆に続く第二の柱、豆腐事業に本格的に取り組むこととなった。協力会社による委託生産から自社生産へと切り替えたのです。
これに合わせ、消費者の本物志向に応えるべく、「にがり100パーセントの絹ごし」をテーマに、平成8年から担当者の模索が始まっていました。豆乳を一回冷やし、にがりの反応を遅らせる冷却豆乳方式という既存の技術に対して、味を落とさないために、温かいまま凝固させる方法「温豆乳製法」の完成を目指しました。
温かい豆乳は凝固速度が速く、にがりを均一に豆乳にいきわたらせるのは至難の業であり、攪拌機のプロペラの角度、型箱の大きさ、豆乳の炊き方、豆乳の温度など、あらゆる角度から実験に実験を重ねました。
平成9年、ようやく商品化の目途が立ち、4月1日の発売を予告。しかし、いざ製造ラインにのせてみると、豆乳が一向に固まらず、試作時との違いを一つ一つ改善しましたが、2週間、3週間と経過し、発売直前になっても試作レベルに達する商品が完成せず、「この分ではお客さまにお詫びするしかない」と覚悟を決めつつ夜を徹し、改善に取り組んだ結果、直前になってようやく市場に出せる、満足のいく豆腐が完成。まさに劇的なデビューとなりました。
この間、平成8年5月、水戸本社敷地内に新研究所・納豆博物館が完成しました。以前から工場見学の要望は多く、年間4〜5000人が来場していましたが、納豆博物館開館後は1万人程度を記録するようになりました。
また、平成9年3月には水戸第二工場(茨城県小美玉市)が完成しています。